それは獰猛な獣であった。




その腕は、どれほどの岩を砕けるのだろう?
その牙は、どれほどの骨を食むのだろう?
その身体は、どれほどの肉を必要とするのだろう?

獣は鎖に繋がれてなお、底知れぬ力を放っていた。








その市は、年に数度開かれるか開かれないかという頻度で立つ。
時間は既に夜中を回っている。
明かりは最低限に保たれているのだが、妙な熱気と興奮でその市は満たされていた。
通称「夜の市」
こう呼ばれるのはもちろん夜に開かれる市である事もあるのだが、昼の市では扱えない暗部の商品が扱われる隠語も含まれている。
いわゆる奴隷市場であった。
この国では奴隷制度は禁じられている。
だが需要は多く、そして検閲の甘さから今でも年に数度行われている。
そんな中、一際賑わう一角があった。
「さあささ皆様お立会ッ!これにありますは遥か東の島国に住まう勇猛果敢なる一族の末ッ!その腕は岩を砕き百の兵を一薙ぎにすると言われる「トリコ族」の男にございますッ!今は呪式により主人には忠誠をつくしますればさあさあ!皆さま!この男を競って頂きたいッ!!まずは100万グルメからッ!!!」
男が口上を述べた後、幕が下ろされた檻が引き出された。
客たちが固唾を飲みながら様子をうかがっていると、その幕が取り払われた。
中からは規格外の体躯を持った青い髪の男が現れた。
隆々と盛り上がる筋肉。
だが不思議と重さなど感じられず、すらりとした体躯はどこか野生のトラを思い出させた。
今は首に枷をはめられ大人しくしているが、彼から発する怒気は客たちを引かせた。
「ご安心を。この男には呪式を施しております。主人となる人物の名前を刻ませれば、男が刃向かう事はありません。さあさあ!競ってください!!」
そう言えば値段はうなぎ昇りに上がっていった。
男の奴隷の需要は高く、女に比べ力があり肉体労働に適しているのはもちろん、丈夫であるのも重宝がられた。
さらに言えば、男でも女でも見目が良ければさらに値段は跳ね上がる。
女はもちろん夜の相手として(男でも夜の相手として強いられる場合があるが)、男の場合貴族や金持のステイタスとして買われている。
強く、美しい奴隷をどれだけ多く持っているか、より他のライバルたちと差を付けるために何百という奴隷を所有する貴族もいる。
そして今競りにかけられている男は、その両方の条件を十分すぎるほど備えていたのだ。
男の顔には耳までかかる三本の傷があったが、それは返って男の歴戦を物語るものとして人々を魅了した。
そして珍しい青の髪、整った、しかし野性味を帯びた容姿は孤高の獣のようで美しかった。
この男を手に入れたい。
野卑た感情が渦巻く中、小さな手が上がりそして……
「1000万グルメ。」
破格の値段が呟かれた。
値段を提示したのは、一見成人しているようには見えないが、この場所に居るという事は成人しているのだろう。
それを抜きにしても幼く見える。
顔の半分を貴族特有の巻頭布で覆い、頭にもこれまた貴族特有のターバンを巻いていた。
「1000万グルメ、でどうでしょうか?もちろん即金です。」
青年がまた値段を提示した。
その大きく真っ黒な目が、優しそうににこりとほほ笑んだ。
もちろん、その値段以上の金額を提示できるものなどこの場には居るはずもなく、その青い髪の奴隷は彼によって競り落とされた。
交渉が成立したことをバイヤーが男に告げると、青年はほっとしたように礼を述べた。
そして契約を済ませるためにテントの裏側で取引が行われた。
会場では分からなかったが、青年の後ろからすらりとした長身の男が、青年を守るようにつき従っていた。
ターバンと顔布、そして大きめのマントで覆われて容姿は分からなかったが、それでも漆黒の瞳と、布から盛り上がる鼻梁などから男がかなりの美形だろう事は推測された。
そしてその身のこなしからも、只者では無い雰囲気が発せられる。
もしかすると、ならず者が集まるこの場でわざと牽制しているのかもしれない。
バイヤーにすればこの世間知らずなおぼっちゃんをカモにして、もう少しふんだくろうかと考えていたが、付き従う男を見て止めた方がいいと判断した。
「では、最初に言っておきますが、この取引に関して書類は存在致しません。ここは「夜の市」でございます。全ては商品と金、その取引により成立します。」
「承知しております。」
「では彼をここへお持ちします。」
バイヤーが競り落とされた男をこの場へと連れてくるよう、部下に伝える。
青年は後ろの男に「お願いします。」と短く言えば、男の懐から重い金貨の包みを出した。
連れてこられた奴隷の男を間近で見れば、その圧倒的な大きさと存在感に青年は息を呑んだ。
何所までも静かな瞳は、しかし奥底に秘めた激流にも似た圧力に眩暈が起きそうなほどだ。
その証拠に、それまで静かに青年につき従っていた男が、警戒するように男を後ろへと庇う。
「あ、あの、大丈夫ですよ。」
「しかし……」
男の制止を聞かず、青年は奴隷の男の前に出た。
しばらく見つめ合う二人。
「……お前か?俺を買ったのは。」
「こらッ!主人に対して何て口のきき方だッ!!」
バイヤーがそう叫ぶと、何か口の中で短く言葉を呟いた。
途端にじゅ、と嫌な音と肉の焦げる匂いが辺りに漂った。
見れば奴隷の男に付けられた首輪が熱を発し、男の首を焼いたのだ。
かなりの痛みがあるだろうに、奴隷の男は眉ひとつ動かさなかった。
「何をなさるんですかッ!!」
叫んだのは奴隷を買った青年だった。
そうしてその小さな体でバイヤーと奴隷の間に立ちはだかった。
それまで大人しかった青年の怒りに、バイヤーは少し戸惑った。
「な、何って…奴隷の教育を……」
「彼は人間ですッ!言葉が通じるのですから言葉で言えばいいのですッ!!」
バイヤーに食ってかかる青年は、妙な迫力があった。
そして一拍置くと怒気を孕みながらも静かに宣言する。
「それに、彼は既に僕の物です。その僕の物を傷つけるなど、許しません。」
「わ、分かりました。では、主従の呪式を……」
主従の呪式。
それは奴隷によく施される非道なる魔術の一種である。
主になる人物の名前と血が刻まれた枷を従の身体の一部に嵌め、逆らえば先ほどのように枷が容赦なく奴隷の身体を焼く。
奴隷を買う時には必ず施されるものであった。
だが……
「必要ありません。」
その言葉に驚いたのは、青年に従う男だった。
男は慌てて青年の前に跪き、彼らの身長差が大きいために跪いても視線は同じ目の高さだが、それでも男は縋るように青年を見る。
「こいつは危険だ、僕には分かる。だから呪式を施さないなんて、自殺行為だ。」
「大丈夫ですよ。さあ、貴方と彼の呪式を解いて下さい。」
「は、はあ……しかし……その……。」
男が心配するのを余所に、青年は商人に呪式を解くよう促す。
商人もなかなか動こうとはしない。
それもそうだ。
今呪式を解けば、自分がこの奴隷に殺されかねないのだ。
そんな商人の心中を察した青年は、呪式の媒体となる鍵を渡してもらえればこちらで勝手にやるという。
それを聞いた商人は掌を返したように喜び、呪式解除に必要となる自分の血を媒体となる鍵に付けてそのまま青年に渡すと、そそくさとその場を去って行った。
「……逃げ足はやッ!」
青年が思わず突っ込んだ事に、青い髪の奴隷は思わずぷっと吹き出してした。
「あ、笑いましたね?」
どこまでも人の好さそうな笑顔に、奴隷は暫く見つめると、漸く口を開いた。
「本当に、呪式を施さなくてもいいのか?俺はお前を殺すことなど、簡単だぞ?」
「トリコ族の人間は、無益な殺生はしないと聞いています。それとも貴方は私を食べるために殺しますか?」
「……トリコ族なんて、とうの昔に滅んだと教えられなかったのか?それとも何か?あの胡散臭い商人の口上を鵜呑みにしたのか?」
「僕は昔一度だけ、トリコ族の人と会ったことがあります。だから分かりますよ、貴方がそうでないのか、あるのか……。」
そう言うと、小松は奴隷に屈んでくれるよう頼む。
首輪に施された呪式を解くためだ。
「……命令はしないのか?俺を買ったのはお前だ。頼む必要なんてない。命令すればいい。」
奴隷の言葉に、青年は少し困ったような顔をしながら奴隷のつもりで買ったのでは無いと否定する。
「じゃあ何だ?憐れみか?お前は俺のような奴隷全てを救うつもりか?」
「そこまで僕は傲慢ではありませんし、聖人君子でもありません。ただ……」
「ただ?」
中々喋らない青年に、どれは先を促すよう跪き青年の顔を覗き込んだ。
「……怒らないで下さいね?」
「怒らない。」
「あなたが、お腹が空いて空いて仕方がないって、泣いているように見えたので……」
意外な言葉に奴隷は目を見開かんばかりに驚く。
確かに腹は空いているし、怒りというのも少しはある。
だが泣いているなどと言われたのは、初めてだ。
暫く見つめ合ったままだったが、奴隷がふと力を抜いたように微笑んだ。
その微笑みに見とれていた青年は、奴隷が首を傾け呪式を解く為の首輪の鍵穴を、青年に向けた事に気付かなかった。
動かない青年に、奴隷は焦れたように言う。
「早く呪式を解け。さっきから首がチリチリして堪らない。」
「は、はいッ!!」
かちゃんと首輪が取れると、奴隷は無造作にそれを放り出すが、立ち上がらずそのまま青年の前に跪いたままだった。
不思議に思った青年が奴隷に尋ねる。
「どうしたんですか?」
「お前の名は?」
「あ、まだ言ってなかったですね。僕の名前は小松っていいます。貴方の名前は何ですか?」
「……トリコ。」
「ああやっぱりトリコ族の人だったんですね!一族の名前がそのままって珍しいですね。」
(一族の名前をそのまま冠する奴隷だと?)
それまで静観していた護衛の男は、その名前を聞いた瞬間に嫌な予感がした。
悪い事に、この手の自分の感は今まで外れたことが無い。
思案している間に、トリコと名乗る奴隷は小松の手を取りじっとその手を見つめていた。
殺気は無いのと、小松が嫌がっていないのでトリコの好きなようにさせてはいるが、男にとってそれはとても不愉快な景観だ。
その気配を感じ取ったのだろう。
トリコは男に向ってにやりと笑った。
そして見せつけるようにその見た目よりも硬い手に、小松の手などすっぽりと入るような唇を寄せた。
「!?トッ、トリコさんッ!?」
「キサマッ!!」
「少し黙ってろ。」
トリコが喋るとその振動で手の甲がくすぐったかったが、その思いのほか真剣な声音に小松は、今にも食ってかかりそうな護衛の男を視線で制止させ、黙ったままトリコの好きにさせた。
すると、トリコが不思議な、異国の言葉を紡ぎだした。




「Eu esculpo
Seu nome
Para meu nome
Meu nome e tricot
Seu nome e Komatsu
O senhor esculpe com meu nome?」



「Simと言え。」
「え?」
「いいから、お前はSimと言えばいい。」
「止めろ、それは異国の呪式か?言葉の力から何かの契約の呪のようだが……キサマ、小松君に何をする気だ。小松君もこいつの口車に乗ってはダメだよ。さあ!今すぐ小松君の手を放せ。さもなくば……」
護衛の男の周囲に風が起こり、彼と契約している精霊たちが騒ぎだした。
しかも彼は、この国でも有数な呪術師の一人であり、有史以来その契約を成功させた人間は僅か数人という、瘴毒の精霊との契約を果たした人物だ。
そして今まさに、その瘴毒の精霊がその虚ろな顔を覗かせ、トリコの呪の儀式によって生じたフィールドを切迫し始めた。
その様子を見たトリコは小松に聞えるぐらいの小さな声で話しかけた。
(今契約の途中で精霊の力をぶつけられたら俺もお前も、あいつもただじゃすまない。だから早く言え。)
(……)
(決してお前を害しようっていう呪じゃない。誓って言おう。お前に傷一つ付けやしない。)
(……分かりました)
「Sim。」
ぱんっと何かが弾けたように場が穏やかになり、それまでの不穏な空気が嘘のように静まり返っていた。
トリコと小松の間の契約が成立し、その確固たる力が男の操っていた精霊達を弾き飛ばしたようだ。
「……馬鹿な。」
それまで緊張していた精霊たちが、ざわつくのを止めた。
「じゃ、行くか?」
「え?どこへですか?」
「は?何言ってんだ小松。お前の家に決まってるだろ?お前が言ったように俺は腹が減ってんだ。何か食わしてくれ。」
「はいッ!!」
そして青い髪の奴隷と、その主人である小さく優しい男、その男に仕えし最強の呪術師。
彼らの物語が、始まる……。







「Eu esculpo(我は刻む)
Seu nome(汝の名前を)
Para meu nome(我名に)
Meu nome e tricot(我名はトリコ)
Seu nome e Komatsu(汝の名前は小松)
O senhor esculpe com meu nome?(汝我名を刻むか?)」




Sim……(はい……)




「彼は既に僕の物です。その僕の物を傷つけるなど、許しません。」
って小松に言わせたかっただけです(笑)
あくまでネタですので、続きません(そこまでの技量がありません)←
ちなみにトリコが言ってる呪文みたいなのはポルトガル語です。
なんか語呂がいいの無いかなあってさ迷ってて翻訳ソフトで適当に変換したやつですので
あまり突っ込まないで下さい……(切実)
※プラウザバックプリーズ