▼2010/5/13(木):備後の武将 水野勝成
 水野勝成

   永禄7年8月15日(1564年9月30日)
   慶安4年3月15日(1651年5月4日)
 
初陣は天正7年(1579年)の遠江国高天神城攻めで織田氏の加勢として家康の軍に加わる父忠重に従って出陣するが、このときは、武田勝頼の撤退により戦いにはならなかった。

同年徳川秀忠が誕生すると、勝成は乳兄弟とされた。

天正8年(1580年)、父の忠重が、織田信長に引き抜かれ、刈谷3万石の大名になる。奥田城、細目城を任される。

同年の第二次高天神城の戦いに父忠重と共に参加し城を攻めた。しかし、戦いは翌年(天正9年)まで続き最後は城から城兵全員が討って出て大激戦になったと言われる。このとき勝成は16歳にして首級をあげ、信長から感謝状を与えられる。
 

 甲州攻め
 天正10年(1582年)、勝成は父の
Posted 16:44
▼2010/2/11(木):宮氏

掛迫城の宮氏は、宮法成寺とよばれた。
このように分家した者は、土着した地名を、名字にする場合が多く、宮氏の一門もそれぞれ在名を取って、「有地」「高尾」「久代」を名乗った 掛迫の宮氏もその一人だった。天文19年8月大内方の攻撃を受け、尼子方の掛迫城は焼き払われた、城主宮法成寺氏は滅亡した。

備後の豪族。久代(くしろ)の比田山城(比婆郡久代)に拠り「久代殿」と呼ばれ、勢力を広げ、六代景友のとき、五品嶽ごほんがたたけ(現比婆郡東城町)城を築く。
山名氏・大内氏・尼子氏・毛利氏の間を時代と状況によって
泳ぎ、毛利氏が戦国大名と成長するに及び、その配下に属するようになる。 
七代高盛は、天文二年(1533年)、大富山(おおとみやま入江)城を築いて本拠を移して備後五品嶽城を東城、大富山城を西城と呼んだ。
宮氏は近世には千五百石取りの家臣として萩にうっている。
宮高盛 (?~?)

宮景友の子。久代宮氏七代当主。八鳥二本松合戦で尼子勢を退ける。天文三年毛利家の亀寿山城攻めを阻もうとして、逆に敗れる 天文五年尼子経久の攻撃から城を守る。


宮光音(?〜1552年)

新市宮氏。常陸入道。志川滝山合戦では中心人物となるが光寄と共に毛利軍に打たれた。

宮元盛(?〜?)

新市宮氏。亀寿山城落城後、おじの宮光音の下に身を寄る。天文二十年宮一族は尼子氏の協力を得て亀寿山城を奪回しようとしたが、大内義長の命により毛利軍に、天文21年に宮一族は滅ぼされた。

宮直信(?〜1534)

宮氏総新市宮家当主亀寿山城主下野守、天文3年、毛利元就に攻められ落城宮氏総領家は滅んだ。

Posted 12:13
▼2010/2/4(木):山内直通 (やまのうち なおみち)
生没年不詳
日本の戦国時代の武将で、備後国国人の山内氏の当主。
父は山内豊成、多賀山通続妻、宍戸元家妻。備後甲山城を本拠地とした。 
戦国初期の当主である山内直通は、出雲尼子氏と周防大内氏と安芸毛利氏との間で、しぶとく独立を保った。
塩治興久(直通の妹婿)渡辺通など、近隣諸国からの亡命者を彼の下で保護した。


甲山城について
場所  広島県庄原市本郷円通寺
構造  石垣を用いず土塁を利用した山城。
    本丸、二の丸、三の丸を持つ天然の要塞。
    

Posted 14:00
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